(聞き手)
発災当時の状況と。その後の行動について、教えてください。
(鈴木様)
3月11日は、自宅近くのハウスの中で農作業をしていたところ、宮城県沖地震以上の揺れを感じました。
これは大変な地震だと思い、母親が心配で自宅に帰った時に津波が来たのです。
その時は、すでに30センチメートルくらいの津波が来ていました。自宅の外に出ると、12~13人ほどの人がいたので、とにかく危ないからと私の自宅に避難させました。
私は
区長として、皆さんに避難の声掛けをしたかったのですが、私自身、自宅の外に出る事さえ出来ませんでした。
翌日の朝8時頃に自宅周辺の水は引きましたが、道路にはまだ水が残っていました。
私の家に何人かが避難している事を伝えないといけないと思い、自衛隊や消防署の方がいる場所までなんとか行って、私の家に何人か避難していますと伝え、助けて頂きました。
それから、私は地域の人たちの状況を把握するために、
避難場所になっている多賀城八幡小学校や天真小学校へ行きました。
学校に行くと、地域の人から「
区長さんも大丈夫ですか。何かあったら教えてください」と声を掛けて頂きました。
地域の方が避難されていた学校等には、1週間ほど通いました。
その後、日本赤十字奉仕団で集まり、とにかくこの災害は大変なものだから、皆さんとこれから連絡を取り合いながら頑張りましょうという事になりましたが、他の
区長さんたちから、何から始めればいいのかという話が出てきました。
とにかく、今は、地域の皆さんの安全などを守らなければいけないと思い、では、私が代表になり話を進めるという事になりました。
その活動は3月15日から5月15日くらいまで続いたと思います。
そして、私が先頭になって、問題点などをまとめ、日本赤十字奉仕団の方たちと市役所へ相談に行きました。
3月16日以降は、私は毎朝9時に八幡地区の
避難場所になっている八幡公民館に通いました。
そこには100人前後の人たちが避難していました。そこに毎日通い続けました。
避難場所には市の職員が20人ほど、交代で避難者のお世話などをしておりました。分からない事は市の職員に聞いたり、一緒に地域を回ったりしました。
避難場所には自衛隊の方たちもいたし、地域の役員さんもいるので一緒に声を掛け合い、
連携を取りながら、活動をしていました。