防災・減災への指針 一人一話

2013年11月18日
役割を決めずに行う防災訓練の効果
八幡下二区長
鈴木 邦彦さん

震災の応急対応期における区長の役割

(聞き手)
 発災当時の状況と。その後の行動について、教えてください。

(鈴木様)
3月11日は、自宅近くのハウスの中で農作業をしていたところ、宮城県沖地震以上の揺れを感じました。
これは大変な地震だと思い、母親が心配で自宅に帰った時に津波が来たのです。
その時は、すでに30センチメートルくらいの津波が来ていました。自宅の外に出ると、12~13人ほどの人がいたので、とにかく危ないからと私の自宅に避難させました。
私は区長として、皆さんに避難の声掛けをしたかったのですが、私自身、自宅の外に出る事さえ出来ませんでした。
翌日の朝8時頃に自宅周辺の水は引きましたが、道路にはまだ水が残っていました。
私の家に何人かが避難している事を伝えないといけないと思い、自衛隊や消防署の方がいる場所までなんとか行って、私の家に何人か避難していますと伝え、助けて頂きました。
それから、私は地域の人たちの状況を把握するために、避難場所になっている多賀城八幡小学校や天真小学校へ行きました。
学校に行くと、地域の人から「区長さんも大丈夫ですか。何かあったら教えてください」と声を掛けて頂きました。
地域の方が避難されていた学校等には、1週間ほど通いました。
その後、日本赤十字奉仕団で集まり、とにかくこの災害は大変なものだから、皆さんとこれから連絡を取り合いながら頑張りましょうという事になりましたが、他の区長さんたちから、何から始めればいいのかという話が出てきました。
とにかく、今は、地域の皆さんの安全などを守らなければいけないと思い、では、私が代表になり話を進めるという事になりました。
その活動は3月15日から5月15日くらいまで続いたと思います。
そして、私が先頭になって、問題点などをまとめ、日本赤十字奉仕団の方たちと市役所へ相談に行きました。
3月16日以降は、私は毎朝9時に八幡地区の避難場所になっている八幡公民館に通いました。
そこには100人前後の人たちが避難していました。そこに毎日通い続けました。
避難場所には市の職員が20人ほど、交代で避難者のお世話などをしておりました。分からない事は市の職員に聞いたり、一緒に地域を回ったりしました。避難場所には自衛隊の方たちもいたし、地域の役員さんもいるので一緒に声を掛け合い、連携を取りながら、活動をしていました。

食糧と水の確保

(聞き手)
 大変だった事は何ですか。

(鈴木様)
一番困った事と言えば、食糧と水でした。何か用事がある時は、私が市役所に連絡をしたり、市役所から私に連絡がきたりというやり取りをしました。
また、皆さんから質問などがあると、市の職員に伝えて、市役所からの情報を聞いてもらい、皆さんに伝えて頂きました。
この八幡地区は、津波が運んだ汚泥などでドロドロしていて、車が通りにくい場所でしたし、食糧もないからどうしようと不安がっていた方には、とにかく避難所に行ってくださいと伝えて、出来るだけ避難所1カ所で行動するように働きかけていました。
また、ほとんど浸水した八幡地区の中に、土地が高くなっている場所にあるお寺が2カ所ありまして、50人くらいづつの人たちを2カ月ほど避難させて頂きました。
他には、地域の方が食糧などを提供したり、何かあれば市の職員を含めた八幡5区の区長で話し合いをして、連携をとり、皆さんに伝達事項を報告したりして地域をまとめていきました。
そして、これが一番大事な事なので伝えたいのですが、災害で被害を受けているのは地域の方たちだけではなく、区長、役員の方たち、市の職員といった、全員が災害を受けているという事実です。

(聞き手)
ご自宅はどのくらいまで津波で浸水しましたか。

(鈴木様)
52センチです。
5月15日を過ぎた頃から、ボランティアさんにも沢山来て頂きました。ボランティアの申し込み受け付けは、日本赤十字社宮城県支部多賀城市地区奉仕団第8分団長として、すべて私が取り仕切りました。
それから市の社会福祉協議会のボランティアの人たちの協力もありました。私が頼み込んで、ゴミの収集も出来るだけ早くして頂くようにお願いしました。
震災から1カ月過ぎた頃だったと思いますが、「今からボランティアが80人ほど山口県の福祉協議会から行きますから、何とか受け入れをしてくれないか」と電話で連絡がありました。そこで、ボランティアの方々には八幡下二区の側溝の泥かきなどをして頂きました。地図を見て、隣の地域へも、100メートルでも200メートルでも、泥かきを進めてもらいました。地域のまとまりがあってこそ出来た事だと思います。

役割を決めずに行う防災訓練の効果

(聞き手)
 震災後の地域のコミュニティ活動や防災訓練について、教えてください。

(鈴木様)
震災後、八幡下二区集会場が津波で全壊になったこともあり、2年間だけは地域のお祭りや防災関係の事は一切取りやめていました。
新しい集会所が平成25年9月に完成したため、今年から活動を始めました。
それまでは集会場がないので会議などをする時などは困っていました。再建費用を市から出して頂いて、お陰様で、新しい集会場を建てる事が出来ました。
同年の11月4日に多賀城市の総合防災訓練があり、八幡地区からも約90人が集まって防災訓練を行いました。訓練では、役割分担をしませんでした。
なぜ役割分担をしなかったといいますと、地域の皆さんに自主的に行動してほしかったからです。
今回の訓練では役割を決めないで皆さんで行いましょうと言いましたら、「そうだね、自分たちですすんで行った方がいい」という事になりました。
訓練で私が一番感じた事は、子どもや高齢者が、今後どのような立場で、訓練に参加するかという事です。若い人もいますが、高齢の方も多いです。そういう年代の事も考えて、やはり訓練は役割を決めずに、皆で一緒になって行うのが一番いいのではないかと思います。

震災経験の共有と訓練による防災知識習得の大切さ

(聞き手)
 東日本大震災を経験して後世に伝えたい事や教訓はございますか。

(鈴木様)
これから先、いろいろと忙しいと思いますが、地域で1年に1回でも、2年に1回でもいいので訓練を続けて、そして、伝えていく事が一番いいと思います。
それと、津波がどのくらい恐ろしいのか自分だけわかっていても仕方がないので、みんなで、津波の体験を共有する事が大事でしょう。
今までは、多賀城市全体で訓練をするとなると、5年に1回の割合で、各地域から人を一カ所に集めて訓練をしていました。
このやり方は、まったく役に立たない訳ではないのですが、安心出来るほどではありませんでした。
これからは定期的に訓練を行い、みんなで防災の知識をきちんと持つ事が大事です。津波の時だけではなくて、火事や台風が起こった時も同じです。

(聞き手)
 東日本大震災を経験しての思いがありましたら、ぜひお聞かせください。

(鈴木様)
多賀城市で亡くなった方が沢山いらっしゃいます。私の自宅の近くでも亡くなった人がいましたし、他の市町村では未だに行方不明の方も沢山いらっしゃいます。
ですから、宗教など関係なく、供養をして、いつ誰か来ても花や線香などを携えてお参り出来る場所が必要だと思っています。これが私の考えであり、願いです。